追記

この前行ったアーツ・マネジメント研修の一環としてコミュニケーション・セミナーが行われたんですが、その中で個人それぞれの得意なコミュニケーションのパターンを分析するという企画がありました。そのパターンは3つあって、
①視覚型 イメージや映像で記憶・伝達するのが得意
②聴覚型 文字や音声、理屈での記憶・伝達が得意
③感覚型 直観や皮膚感覚に優れる
の3パターンのなんですが、自分は視覚型という結果でした。視覚型の人間は、自分の頭の中でイメージが完成してしまっているために他者に情報を伝達するときに言葉を使うのがもどかしく、論理が飛躍したり説明不足になりやすいのだそうです。そういう自分の短所を知り、弱点を補ってコミュニケーションをしていこう、という企画だったのですが、今日の上の文章でもバッチリ弱点が出ていますね。これからはこうした随筆でも論理を意識していこうと思います。

夏休みはやっぱり、短い。

久しぶりにこの曲を聴いたら、涙が出そうになりました。
夏の決心 / 大江千里


90年代にポンキッキを見て育った世代にはたまらないですね。昔リアルタイムで聴いてたときには何も思わなかったのになあ。乾いたドラムスにキラキラしたシンセ。「子供時代、青春時代は良かったなあ」と言う懐古趣味はあまり好きではないんですが、無邪気な過去、失われたもの、この夏に遣り残したことに思いを馳せてしまうと、誰しも何かしら思うことはあるんじゃないでしょうか。去年の夏は様々な行事を楽しむのに忙しくて過去を振り返る余裕もなかったのですが、今年は一人でいろいろ活動することが多くて、つい物思いしてしまいます。滴る汗や水しぶき、土や緑の蒸した匂い、強い日差しと日陰のコントラスト。花火の鮮やかな色と火薬の香り、うるさかったセミの声(もうこの季節になると夜は秋の虫の声が聞こえますね)、水出し麦茶の美味さ。自分は暗いものより明るいもの・輝いているものを見て憂鬱を感じるタイプのようです。対比されるもの(≒自分?)まで想像されてしまうからでしょうか。てことは自分が明るくイキイキしていれば陰鬱な風景に陰鬱さを感じるのかな?ふ〜む、なんかリア充・非リア充の相互嫌悪にも通じる話になってしまった・・・。今年は非リアの空、UFOの夏!ふぉー!

今年はなんでこんなに非リアなんだろうと思ったら、ほとんど屋内に居たからですね。ついこの間一週間ほど新潟に居たときも朝から晩まで屋内研修で、昼休みに少し日の光を浴びたくらいでした。そういえば昨日も一日中事務所で作業してたなあ。あ、お盆は新型インフルにかかって寝込んでたYO!そりゃ切なくもなりますね。しかし身体感覚・感性が鈍っていくのを実感できたという意味では、今年の夏はよい機会になったと思います。ここまで仕事人間になれるとは思っていなかったので。仕事を楽しむ方ばかりに意識を傾注してしまってそれ以外目が向かなくなるというか。典型的日本のサラリーマンはこうして作られていくのか・・・怖っ。そうだ、運動しよう!ラジオ体操をしてまた切なくなろう!大きく腕を広げてぇ〜、手足の運動っ!・・・徹夜明けの体には堪えます。

話は変わりますが、今年の夏はマイケル・ジャクソンが亡くなったり、(元?)国民的アイドルが逮捕されたり、戦後日本の政治を担ってきた自民党が大敗して民主党政権が誕生したりと、世の中の流れの大きな変化を感じる季節だった気がします。特に民主党政権誕生は、リーマン・ショック以後の社会の閉塞感も大きな要因ですが、“CHANGE”を謳い人種的にもその象徴であったオバマ政権が誕生したこと、日本の場合はロックスターや大物プロレスラーが亡くなったことなども時代の変わり目を意識させ、世の中全体が「変化」を望む空気になっていたという土壌が大きく作用したと思います。民主党の「政権交代」というスローガンもまんま“CHANGE”ですしね。時代の空気の流れとか、ゼロ年代のなかでの位置づけとかもこれから次第にされていくことでしょう。
しかしちょっと政治史を齧った人や年配の方は、今回の政権交代劇を見て、戦後の長期政権・自由党吉田茂政権を打倒した日本民主党鳩山一郎政権の交代劇を思い出したんじゃないでしょうか。「長期保守政権を打倒」、「自民の麻生を民主の鳩山が打倒(吉田茂麻生太郎の祖父、鳩山一郎鳩山由紀夫の祖父)」、「官僚政治からの脱却を謳う(党人派)」、「親中・親ロ(親ソ)外交」「三党による連立政権(鳩山一郎日本民主党自由党鳩山派・自由党中間派、改進党の三勢力合同新党)」「鳩山人気」など、ちょっと見ただけで共通点が多く見つかると思います。違いももちろん沢山あるわけですが、共通点が多い=先例と考えると先を予測できる部分もありそうですね。
あまり政治に詳しくない素人なので詳しい予想はできませんが、鳩山一郎政権も大きな改革や官僚機構の打破に成功したとは言い難く、それ以外の現代の要素を考えても先行きはあまり明るくないように思います。実績がないだの、予算が根拠に乏しいだのと至るところでで攻められているので、ここでは改めて指摘はしません。それらは責めても仕方ないことだと思いますし、自分としてはこの機会を活かして大いに改革をやってほしいと思います。が、鳩山一郎政権が残した北方領土問題などを見ても分かるように、一度の大きなミスがのちのち尾を引くのが政治なので、くれぐれも大胆に改革する方向と大ポカする方向だけは間違えないで欲しいものです。ということをさいとう・たかをの『昭和政治家列伝』を読みながら思った今日この頃でした。


うわあ、書いてて自分の保守さ加減にびっくり。やっぱり自分で文章を書いて自分で読んで、ある程度客観視することって大事ですね。あと、嫌いなものからは目を背けようとする・あまり分析しようとしない性格にも気づきました(失敗から学ばない性格なのかもしれません)。それを踏まえて自分がノスタルジーの感傷というか「あの頃は良かったなあ」的言説が嫌いな理由を考えてみると、自分の過去の半分は嫌いで、ただ現実と未来を見ることを善としているからなのかな、という気がしてきました。これはオタキングこと岡田斗司夫さんのオトナ帝国のレヴューを読んで気づいたことです。あてもない未来にただただ希望を見出す若者も、大人になってそれを打ち砕かれて未来も現実も見れなくなったら、過去を見るしかないんですよね。その辛さは挫折を経験したことのある人なら誰でも、自分にも理解できるはずです。それなのに、その辛さを理解できないものしたい(挫折した過去を認めたくない・消し去りたい)がために、自分には関係の無いこととして目を背けようとしている。そういう気持ちがどこかにあるんでしょう。うわー恥ずかしいこと限りなし。気分はまだまだ子どもですね。

相変わらず漠然とした随筆ですが、これからも書いていこうと思います。最初の夏の話に戻りますが、最近更新していなかったのはブログタイトルの「ある好奇心」が行方を眩ましてしたせいなんですよ。こればっかりは失くしちゃいけない。それを実感した夏でしたとさ。
めでたしめでたし。


ではでは今日はこのへんで。

いざさらば書を捨てよ / Droog

最近一週間ごとに書を捨てたり拾いに戻ったりしています。
極端はよくないですね。習慣習慣。
タイトルはたまたまYoutubeで見つけた音楽から。

最近のバンドとは思えないこのダルいパンクさ。
オフィシャルHPを観たら1991〜92年生まれの高校生だそうでびっくり。
http://tosp.co.jp/i.asp?i=BEPPU&P=0
ギターとかけっこう上手いのにこういうダサい音楽をやってしまうのがいい。写真を見てやっぱりRAMONESか、と納得しましたが笑
最近メジャーデビューしてにわかに有名になってきたTHE BAWDIESなんかとも、ジャンルは違えど芯が近いですね。

彼らも前面に50〜60年代Old Rockの香りをぷんぷんさせてます。


古典を再解釈してますよー、とあからさまにアピールすることが差異化になる時代、というのは面白いと思います。
すごい乱暴に言ってしまうと、それまでの音楽業界は一般的に、世界中から発掘してきたマイナーだけどいい音楽/違うジャンルだけどいい音楽のイイトコドリをして自国で新しい音楽を作っていたのですが、もはやメジャーとマイナーの境界が消えてしまった現代では、むしろメジャーな音楽の影響を前面に出すことでそのファンをそっくりそのまま自分達のファンとして獲得しようという流れが生じている、と考えられるのではないでしょうか。あまりに新奇な音楽だと中高年層から支持を得るのが難しくなってしまいますが、古典の再解釈であれば一番パイの大きい消費者層であるアラサー〜アラフォー世代もターゲットに成り得るんですよね。昨今の再結成ブームやリマスターCDの盛況を観ても分かるとおり、懐かしさは中高年層の消費を刺激する重要な要素です。韓流やごくせんやだんご三兄弟の流行、クレヨンしんちゃんの劇場版『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のヒット、コンビニ用に再販されるワンコインの懐かしマンガ、パチンコ台の古いモチーフ使用の増加など、そうした一連の懐かしさを感じさせるものがトレンドの大部分を占める状況はここしばらく続いています。少子高齢化や収入減少による消費活動の保守化(安くて確実なものを購買するようになる)など、様々な理由がみつかりますが、こっちは本題ではないので詳しい分析は省きましょう。

もう一つ読み取れる今回の本題は、ジャン・ボードリヤールが予測した「シミュラークル」が支配する文化産業の未来に近づいているなあという印象です。「シミュラークル」というのはオリジナルとコピーの区別が弱くなったときに出てくる中間形態を指すのですが、彼らの音楽はまさにシュミラークル的です。完全なコピーではありませんし、オリジナルというには元ネタがあからさまに透けて見えます。むしろ透けているからこそ価値が発生していると言えるでしょう。そこにギャグとしての性質はほとんどなく、純粋に「好きでコピーしてたら似た音楽作っちゃいました」という彼らの声が聞こえてきそうな楽しさと喜びに溢れているのも大きな特徴です。これは、これまでにギャグ・パロディ・オマージュとして存在していた曲やバンド、そしてもちろん単なるコピーバンドとは明らかに質が違います。例えばOasisビートルズへのオマージュを公言していますが、彼らは基本的に彼らの時代の音で再解釈しています。また、王様という洋楽直訳ロックミュージシャンは、演奏はそっくりコピーしていますが、洋楽を直訳すると意外とかっこ悪い歌詞だという滑稽さを売りにしています。強いてシミュラークル的なバンドを挙げるとすると、The BeatlesのパロディバンドとしてスタートしたThe Rutlesがその走りとして挙げられるでしょうか。彼らはもともとはパロディの名の通り風刺性があり、滑稽さを売りにしていたのですが、声やオリジナル(?)楽曲のクオリティがあまりにも高かったために大評判になりました。一応当初の目的として風刺性があったので、ここで言っている意味でのシュミラークル的音楽とは言えないかもしれませんが、オリジナルの要素を上手く抽出してほぼ同じ形態で再解釈するという手法自体はDroogやTHE BAWDIESとそっくりです。
あらゆる創造活動はコピーから始まるものだとは思いますが、コピー要素をギャグにせずにむしろ“古き良き時代の空気”を再現するものとして売ったり、ほとんどコピーだと分かっている人が“空気”に価値を見出して彼らの音楽を買ってしまうようになったのは、ここ最近のことだと思います。まさにオトナ帝国の世界。どうしてこういう状況になってきているんでしょうか。
分かりやすい答えとしては、“空気”をデータベースの一つとして消費しているということなんですが、それに関しては、東浩紀氏が『動物化するポストモダン』(2001)で書いているので、そっちを読んだ方が分かりやすいでしょう。これを説明するだけで自分の筆では数日掛かりそうです(汗)『動物化〜』では主にマンガ・アニメなどに絞られていましたが、音楽業界でも似た状況が起きつつあるようです。同人誌作家がそのまま登場人物の名前と設定を少しだけ変えて一般誌デビューし、それが売れてしまうような状況。著作権に厳しい音楽業界では今のところシミュラークル化が差異化になっていますが、これからはどうなることやら。今後も注目していこうと思います。


うあー、うまく説明できねー!
地道に練習しよう。



そういえば、書を捨てよ、と言えば寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』ですが、恥ずかしながらまだ観てないので、夏休みには観たいと思います。
予告編で既に十分面白そう。音楽もいい。

しかし評論のが先に出てた気がするな。。まー映画は映画と割り切って観ていきたいと思います。



そういえば結局ポメラは買いました!講演会のメモにも、授業ノートにも講義形式の場合はかなり使えます。これから論文も書かなければいけないので、重宝しそうです。
この調子でブログの更新頻度も上げていけるかな?
ではでは。

最近読んだ本

多読術 (ちくまプリマー新書)

多読術 (ちくまプリマー新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)

アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

パルプ (新潮文庫)

パルプ (新潮文庫)


ひどい偏り方だなあ笑
講談社現代新書マンセー

こっちは現在読書中の本。

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)


セイゴー氏の言う「リンク読書」に慣れてきたので、関連内容が頭に入っている本は読むスピードがだいぶ早くなりました。
完全に未開拓な分野の本は新書でも時間がかかりますが、それでもそれまでに読んだ本とどこかでつながっている部分があって、昔よりは理解が早くなったと思います。
読めば読むほど速度が上がる仕組みが体感できたので、ようやく多読術のスタートラインに立てたかな。


読書を単なる「消費」にしないためにも、面白かった本についてはレヴューを書きたいですね。
リンクした内容をうまく組み合わせれば少しは書けるかな。
入門書ばかりで知識レベルが知れてしまうけど、気にしない笑

演劇も何本か観れたので、それについてもできれば。

デジタルメモ「ポメラ」

げーっ、一ヶ月以上何にも書いてないのか!
ちょっとこれはポメラ導入を本気で考えたほうがよさそうです。

キングジム デジタルメモ ポメラ  DM10 パールホワイト

キングジム デジタルメモ ポメラ DM10 パールホワイト

デジタルメモ「ポメラ


平たく言えば小型ワープロです。ワープロ機能しか付いてないシンプルデバイス
昨日店頭で触らせてもらったのでますます欲しくなりました。
これがあればいつでもどこでもデジタルで文章が書ける!


ミニノート買えばいいじゃん、って言われそうですが、「機能を限定することによって生まれる価値」のほうを自分は取りたいのです。


一つは小型であること。
W145mm×D100mm×H30mm(折りたたみ時)。
ミニノートPCより一回り以上小さい。
分厚い電子辞書くらい。
これならごちゃごちゃした自分のカバンに入るし、どこでも開ける。


もう一つは起動が早いこと。
約二秒。
早っ!
PCの欠点はOSをいちいち起動しないといけないために、起動時間が長くなってしまうことですね。
ミニノートもその制約からは逃れられないわけで。
しかしポメラはいちいちOSを起動する必要がない。
ということはほぼ思いついた瞬間に書けるということで、まさにメモ帳に近い。


そしてやはり最後は軽さ。約370g。
感覚的には電子辞書に文庫本一冊の重さを加えたくらいでした。
これなら肩にかかる負担は少ない。
健康第一。
嫌になってくる心配がない。


素晴らしいですね。
あと加えるべき情報としては内蔵メモリは約48,000字分。十分です。
消えたと思われていたワープロも、小型化することでまた価値が再生したようです。
小型化によって新たな価値・需要が生まれたといったほうが正確かもしれません。


うーん、欲しい。


とまーここまで持ち上げてみたんですが、不公平にならないよう欠点も挙げておきましょう。


●バッテリー式でなく電池式なので、充電池を使っても充電がメンドクサイ。
microSDを使うかUSBコネクタで直接PCに繋がなければデータをPCに移せない(USBメモリは使用不可)。
●マウスやタッチパッドがない。キーボードの短縮キーを一通り覚えないとカット&ペーストすらできない。
●価格が少し高い。税込み27,300円也。自分が行った大学生協では21,000円くらいになっていましたが。
●キーボードの耐久性が不安。折りたたみのため、ちょっとちゃちい。


こんなところでしょうか。
キーボードが壊れそう、キーが軽すぎるのが個人的には一番の難点です。
まー耐久性なんて実際使ってみないと分からないですよね。
操作性はまずまずでした。


うーん悩みます。触れると欲しくなる。
相手が女性じゃなくて機械でもおんなじです。
今まで夢でしかなかったものが、手で触れるところにある。
一度でも感触を味わってしまった記憶。
嗚呼、悲しき人間の性。


お金がないので二、三日悩んでから決めたいと思います。
アウトプット効率が上がるなら安いと考えるべきでしょうが、ムムム・・・

Imagine / 忌野清志郎


ほら。ここにいるぜ。


と言ってくれた彼は、もういない。
そう思うほどに、どんどん彼の存在感が増していく。
伝説とはこうやって形作られていくものなのでしょうね。


どうしたら世の中をより良い方向に変えていけるのか。
音楽?文学?芸術?思想?哲学?政治?経済?教育?科学?工学?テクノロジー?コミュニケーション?・・・戦争?
そもそも「良い方向」ってなんだ?「変える」?「世の中」?


ロックってなんだ?
喜びってなんだ?
悲しみってなんだ?
生きるってなんだ?
人間ってなんだ?


そういうものに対して沢山の回答を出し、沢山の問いを提示していった男が、死んでいってしまった。
命を賭して大声をあげ、死に物狂いで突っ走った一人のヒーローが、また一人消えていってしまった。


世の中を冷徹に見通し、言うべきことをハッキリ言える人間が消えていってしまうのは本当に悲しい。
自分としては立川談志さんが倒れることを恐れていたのだが、まさか清志郎が先とは。
一目生きた姿を見たかった。彼の存在に気付くのが遅すぎた。


彼のメッセージを受け取った人間の一人として、これからの人生も全力で、死に物狂いで走り抜けていくことをここに誓いたいと思います。




合掌。

真春の夜の夢

いきなりタイトルについての話なんですが、真夏や真冬はあるのに、真春と真秋がないのはなぜなんでしょう。
真夏が「暑さが極まった状態」を表し、真冬が「寒さが極まった状態」を表しているのだとすると、真春や真秋は「気候の平穏さが極まった状態」ということになるでしょうか。平穏な状態って何も際立つものがないから「平穏」なわけで、上記の表現は撞着語法っぽい気がします。しかし最も気候が平穏な状態が規定されていて、それを観測できるのならば、真春や真秋という表現も可能なはずですよね。

↑こんな感じ。いい加減な人間性がにじみ出た図ですねw


うーん、ちょっと考えてみたけど、やっぱり撞着語法くさい。まず、真夏や真冬って、現在は平均気温が30度以上の日は真夏日とかって規定されてはいるものの、元々は体感的に観測していたものだったはずです。不快な状態の度合いは体感でも比較しやすいですが(死に繋がる可能性がある危険なものとして記憶に残りやすいから)、快適な状態の中の特に「平穏」って状態を「今日この日こそザ・平穏デイだ」って感じ取れるかっていうと非常に怪しいです。全てのものが適度であり、心に引っかかるものがないんだから。そして更に言うと、適度さの極みってつまりは「中庸」ってやつですよね。偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいというわけではない、適度な適度さ。今度はトートロジーっぽいですね。 儒教倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念(by wiki)である中庸を感覚でガッチリつかみ取れてしまうのなら、その人は聖人です。真春や真秋は、そんな聖人にしか認識できないような一瞬なので、誰も使わない言葉となって忘れ去られてしまったorそんな言葉を作る必要性がなかったのではないか。


というテキトーな仮説を思いついたところで眠気が限界ですw
後輩とオールナイトで映画を観て思ったことをつらつら書こうと思ったのになあ。


とりあえず報告だけしておくと、大学で学べる時間が一年増えることになりました。
今まで何の勉強もしていなかったので、よーやく大学生活本番といったところですw
加えて趣味の話や意見交換・情報交換もできる後輩(自分より圧倒的に読書量も思索の深さもブログ暦も上だから、むしろ先輩と呼びたいw)も見つかって、この大学に入ってよかったなーと改めて思いました。
一つのいいモデル(about思索・勉強・生活・仕事etc.)を提示してくれる人が身近に居ると、刺激になりますね。
あとの二年もこの調子でいきたい。


さて、今週も頑張りますか。