真春の夜の夢

いきなりタイトルについての話なんですが、真夏や真冬はあるのに、真春と真秋がないのはなぜなんでしょう。
真夏が「暑さが極まった状態」を表し、真冬が「寒さが極まった状態」を表しているのだとすると、真春や真秋は「気候の平穏さが極まった状態」ということになるでしょうか。平穏な状態って何も際立つものがないから「平穏」なわけで、上記の表現は撞着語法っぽい気がします。しかし最も気候が平穏な状態が規定されていて、それを観測できるのならば、真春や真秋という表現も可能なはずですよね。

↑こんな感じ。いい加減な人間性がにじみ出た図ですねw


うーん、ちょっと考えてみたけど、やっぱり撞着語法くさい。まず、真夏や真冬って、現在は平均気温が30度以上の日は真夏日とかって規定されてはいるものの、元々は体感的に観測していたものだったはずです。不快な状態の度合いは体感でも比較しやすいですが(死に繋がる可能性がある危険なものとして記憶に残りやすいから)、快適な状態の中の特に「平穏」って状態を「今日この日こそザ・平穏デイだ」って感じ取れるかっていうと非常に怪しいです。全てのものが適度であり、心に引っかかるものがないんだから。そして更に言うと、適度さの極みってつまりは「中庸」ってやつですよね。偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいというわけではない、適度な適度さ。今度はトートロジーっぽいですね。 儒教倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念(by wiki)である中庸を感覚でガッチリつかみ取れてしまうのなら、その人は聖人です。真春や真秋は、そんな聖人にしか認識できないような一瞬なので、誰も使わない言葉となって忘れ去られてしまったorそんな言葉を作る必要性がなかったのではないか。


というテキトーな仮説を思いついたところで眠気が限界ですw
後輩とオールナイトで映画を観て思ったことをつらつら書こうと思ったのになあ。


とりあえず報告だけしておくと、大学で学べる時間が一年増えることになりました。
今まで何の勉強もしていなかったので、よーやく大学生活本番といったところですw
加えて趣味の話や意見交換・情報交換もできる後輩(自分より圧倒的に読書量も思索の深さもブログ暦も上だから、むしろ先輩と呼びたいw)も見つかって、この大学に入ってよかったなーと改めて思いました。
一つのいいモデル(about思索・勉強・生活・仕事etc.)を提示してくれる人が身近に居ると、刺激になりますね。
あとの二年もこの調子でいきたい。


さて、今週も頑張りますか。