夏休みはやっぱり、短い。

久しぶりにこの曲を聴いたら、涙が出そうになりました。
夏の決心 / 大江千里


90年代にポンキッキを見て育った世代にはたまらないですね。昔リアルタイムで聴いてたときには何も思わなかったのになあ。乾いたドラムスにキラキラしたシンセ。「子供時代、青春時代は良かったなあ」と言う懐古趣味はあまり好きではないんですが、無邪気な過去、失われたもの、この夏に遣り残したことに思いを馳せてしまうと、誰しも何かしら思うことはあるんじゃないでしょうか。去年の夏は様々な行事を楽しむのに忙しくて過去を振り返る余裕もなかったのですが、今年は一人でいろいろ活動することが多くて、つい物思いしてしまいます。滴る汗や水しぶき、土や緑の蒸した匂い、強い日差しと日陰のコントラスト。花火の鮮やかな色と火薬の香り、うるさかったセミの声(もうこの季節になると夜は秋の虫の声が聞こえますね)、水出し麦茶の美味さ。自分は暗いものより明るいもの・輝いているものを見て憂鬱を感じるタイプのようです。対比されるもの(≒自分?)まで想像されてしまうからでしょうか。てことは自分が明るくイキイキしていれば陰鬱な風景に陰鬱さを感じるのかな?ふ〜む、なんかリア充・非リア充の相互嫌悪にも通じる話になってしまった・・・。今年は非リアの空、UFOの夏!ふぉー!

今年はなんでこんなに非リアなんだろうと思ったら、ほとんど屋内に居たからですね。ついこの間一週間ほど新潟に居たときも朝から晩まで屋内研修で、昼休みに少し日の光を浴びたくらいでした。そういえば昨日も一日中事務所で作業してたなあ。あ、お盆は新型インフルにかかって寝込んでたYO!そりゃ切なくもなりますね。しかし身体感覚・感性が鈍っていくのを実感できたという意味では、今年の夏はよい機会になったと思います。ここまで仕事人間になれるとは思っていなかったので。仕事を楽しむ方ばかりに意識を傾注してしまってそれ以外目が向かなくなるというか。典型的日本のサラリーマンはこうして作られていくのか・・・怖っ。そうだ、運動しよう!ラジオ体操をしてまた切なくなろう!大きく腕を広げてぇ〜、手足の運動っ!・・・徹夜明けの体には堪えます。

話は変わりますが、今年の夏はマイケル・ジャクソンが亡くなったり、(元?)国民的アイドルが逮捕されたり、戦後日本の政治を担ってきた自民党が大敗して民主党政権が誕生したりと、世の中の流れの大きな変化を感じる季節だった気がします。特に民主党政権誕生は、リーマン・ショック以後の社会の閉塞感も大きな要因ですが、“CHANGE”を謳い人種的にもその象徴であったオバマ政権が誕生したこと、日本の場合はロックスターや大物プロレスラーが亡くなったことなども時代の変わり目を意識させ、世の中全体が「変化」を望む空気になっていたという土壌が大きく作用したと思います。民主党の「政権交代」というスローガンもまんま“CHANGE”ですしね。時代の空気の流れとか、ゼロ年代のなかでの位置づけとかもこれから次第にされていくことでしょう。
しかしちょっと政治史を齧った人や年配の方は、今回の政権交代劇を見て、戦後の長期政権・自由党吉田茂政権を打倒した日本民主党鳩山一郎政権の交代劇を思い出したんじゃないでしょうか。「長期保守政権を打倒」、「自民の麻生を民主の鳩山が打倒(吉田茂麻生太郎の祖父、鳩山一郎鳩山由紀夫の祖父)」、「官僚政治からの脱却を謳う(党人派)」、「親中・親ロ(親ソ)外交」「三党による連立政権(鳩山一郎日本民主党自由党鳩山派・自由党中間派、改進党の三勢力合同新党)」「鳩山人気」など、ちょっと見ただけで共通点が多く見つかると思います。違いももちろん沢山あるわけですが、共通点が多い=先例と考えると先を予測できる部分もありそうですね。
あまり政治に詳しくない素人なので詳しい予想はできませんが、鳩山一郎政権も大きな改革や官僚機構の打破に成功したとは言い難く、それ以外の現代の要素を考えても先行きはあまり明るくないように思います。実績がないだの、予算が根拠に乏しいだのと至るところでで攻められているので、ここでは改めて指摘はしません。それらは責めても仕方ないことだと思いますし、自分としてはこの機会を活かして大いに改革をやってほしいと思います。が、鳩山一郎政権が残した北方領土問題などを見ても分かるように、一度の大きなミスがのちのち尾を引くのが政治なので、くれぐれも大胆に改革する方向と大ポカする方向だけは間違えないで欲しいものです。ということをさいとう・たかをの『昭和政治家列伝』を読みながら思った今日この頃でした。


うわあ、書いてて自分の保守さ加減にびっくり。やっぱり自分で文章を書いて自分で読んで、ある程度客観視することって大事ですね。あと、嫌いなものからは目を背けようとする・あまり分析しようとしない性格にも気づきました(失敗から学ばない性格なのかもしれません)。それを踏まえて自分がノスタルジーの感傷というか「あの頃は良かったなあ」的言説が嫌いな理由を考えてみると、自分の過去の半分は嫌いで、ただ現実と未来を見ることを善としているからなのかな、という気がしてきました。これはオタキングこと岡田斗司夫さんのオトナ帝国のレヴューを読んで気づいたことです。あてもない未来にただただ希望を見出す若者も、大人になってそれを打ち砕かれて未来も現実も見れなくなったら、過去を見るしかないんですよね。その辛さは挫折を経験したことのある人なら誰でも、自分にも理解できるはずです。それなのに、その辛さを理解できないものしたい(挫折した過去を認めたくない・消し去りたい)がために、自分には関係の無いこととして目を背けようとしている。そういう気持ちがどこかにあるんでしょう。うわー恥ずかしいこと限りなし。気分はまだまだ子どもですね。

相変わらず漠然とした随筆ですが、これからも書いていこうと思います。最初の夏の話に戻りますが、最近更新していなかったのはブログタイトルの「ある好奇心」が行方を眩ましてしたせいなんですよ。こればっかりは失くしちゃいけない。それを実感した夏でしたとさ。
めでたしめでたし。


ではでは今日はこのへんで。