エヴァという神話を乗り越えられなかったエウレカセブン

2009年公開 日本
監督:京田知己
製作:劇場版「交響詩篇エウレカセブン」製作委員会
原作:BONES 脚本:京田知己 脚本協力:大塚ギチ


新文芸座で劇場版エウレカセブンを観てきました。エスカフローネラーゼフォンと一緒に。
とりあえず今回はエウレカセブンについての感想です。


自分はTV版エウレカセブンが大好きで、劇場版予告&あらすじを観た瞬間、「これは・・・観に行ったらあかん!自分の好きだった世界が壊される!」と感じて絶対観に行きたくないと思っていたんですよ。予想通り、今回のエウレカレントンのラブストーリーは、二人の性格がTVシリーズと違い過ぎる・エウレカ大胆すぎて興冷めなどの理由により、自分はあまり感情移入して楽しむことはできませんでした(終始デレっぱなしのエウレカも可愛かったけれど)。それでも今回自分が楽しめたのは、「愛」でなくもう一つのテーマ、「神話」についてのメッセージが面白かったからです。もうメッタメタな感じで失敗していたのでwある意味非常によくできているんですがw

以下ネタバレを含む「神話」についての考察です。


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もともとエウレカセブンはTVシリーズのときから対構造をよく意識している作品で、選ばれた子どもレントンと選ばれなかった大人ホランド、反政府ゲリラの弟ホランドと権力の中心にいる兄デューイ、そして主人公レントンエウレカとレプリカのドミニク・アネモネなど沢山の対がドラマとして描かれていました(そういえばカップルも沢山いたなあ、6組以上はいたはず)。劇場版でも、神話をなぞることによって理想の新世界(ネバーランド)へ行こうとするホランドたちゲッコーステイトに対し、この世界で新たな神話を作り上げることによって理想の世界を作ろうとするレントンエウレカ、という対立軸が明確に描かれていたと思います。時代の空気という観点からこの間の衆院選に当てはめれば、過去の神話に頼るホランドたちが自民党、新たな神話で未来を築こうとするレントンたちが民主党というイメージでしょうかねw(前回のエントリ参照)。


しかし、ホランドにとって未練の無かったこの世界で生きる理由ができてしまったこと、即ち新しい生命・愛する者の誕生がホランドの行動を変化させ、結局彼とゲッコーステイトのメンバーはレントンたちの神話創造に未来を託します。永遠の命を求めてネバーランドに逃げることを止め、この世界で自分の運命と戦いながら生きることを選択する、というのは彼等が大人になったことの証ですね(=ここでピーターパン・ストーリーを回収)。そしてアネモネばあさんの話を経たのち、エウレカがイマージュに自分の記憶を伝えることでエウレカの夢=レントンの夢の世界を実現し、新たな神話創造を成就させてハッピーエンドに。


というのが神話を軸にした大まかなストーリーなんですが、「神話をなぞるのではなく、自分たちの神話を作れ!」というメッセージが非常にアツい!!!!!なぜならこれってメタ構造になっていてもの凄く説得力があると同時に、生産現場の人間の切実な叫びだと思ったからです。


まず、どうメタ構造になっているかというと、この映画がTVシリーズの劇場化作品であり、TVシリーズ同じキャラクターや似た設定を使いながらも全くの新しいストーリーになっているという成り立ちが、上記のメッセージとシンクロしているんですよね。「古い神話(=TVシリーズ)を壊して新しい神話(=劇場版)を作り直す」ということを、製作者自身が実行しながら映画のメッセージにもしているわけです。ろくすっぽ努力をしていない自分が「小さな努力の積み重ねは大事だ」って言うより、イチローがそれを言うほうが断然説得力がありますよね。自分が説得力5のゴミだとしたらイチローの説得力は530000くらいあるでしょう。そうした経験や実績に基く強い説得力がこのメタ構造によって生まれていると思います。


そしてまた、「自分たちで神話を作れ!」ってのは昔の作品の焼き直し・継接ぎばかりになってしまったいまのアニメ業界への抗議にもなっていると考えられます。宮崎駿監督がポニョを作ったのも、同じような物語の焼き直し嫌気が差して物語の枠や理屈によらない純な神話を作ろうとしたからですし、いまのアニメ業界では共通のテーマなのかもしれません。それに「打倒エヴァンゲリオン」を謳っていたエウレカセブンにとってエヴァという神話を超える神話を作ることが悲願なわけで*1、「よかったー!!これも一つの答えじゃないか!!とうとうやったね!たえちゃん!」って一瞬思ったんですが、あれ、そういえばこの構図どっかで観たことあるぞ・・・


























ってやっぱりエヴァかよーっ!!!!!



もちろん新劇です。気付いてだいぶガッカリしました。。。ここまでキャラの性格も違う、設定も違う、ストーリーも違うTVシリーズの劇場化作品はエウレカセブンが業界初だと思うのですが、TVシリーズの設定を変化させた類似世界における完全新ストーリーというコンセプトは先に庵野監督がエヴァ新劇のために考案したものだと思われます(エヴァ序の段階ではキャラの性格変化やシナリオの改変がまだ少なかったので、エヴァの話を聞いた京田監督がエヴァ破公開の前にエウレカでその手法を使ってしまったのではないでしょうか)。てかよくよく調べてみると、京田監督は実はエヴァ序に絵コンテで参加していて、庵野監督がその際、今のアニメ業界の現状や問題点、そして新劇について京田監督に話をしたという経緯があったみたいですね。。。
http://homepage3.nifty.com/mana/new-eva13.html
これはほぼ確信犯だと思われます。


「この10年、エヴァを超えたアニメはありませんでした」という庵野監督の新劇製作会見時の言葉がより一層深く胸を突き刺します。





はい、あなたのおっしゃる通りでございます。




「古い神話を乗り越えて新しい神話を作る」という試みを新しい神話=エヴァ新劇の焼き直しで実現してしまったので、一見メタ的に成功しているように見えてももう一層上から観ると実は大失敗している、ということが今回の映画一番の見所ではないでしょうか(皮肉なことに)。進化し続ける神話っていうエヴァ自体反則的なんですけど(良い意味で)、でもそこからコンセプトをもろに流用していながら「新しい神話を作ろう!」と嘯くエウレカセブンは反則です。「新しい神話を作る」というテーマはTV版でエヴァの劣化パクリと批判されたことへの反省から来ているわけではなく、単なるエヴァへのオマージュと捉えるべきでしょう。これはTVシリーズからの一貫した姿勢なのかもしれません。


そしてもう一つなんだかなあと思ったのは、「人間が生きるには記憶が必要だ」「記憶こそ生命が未来に進む根拠だ」というメッセージが出てきたところです。これは既に京田監督自身がラーゼフォン劇場版でも言っていて、それを持ち出すなら人類の記憶である旧レントンエウレカ神話を再現して未来に進んでもよかったのでは?と自分は思ってしまいました。ホランドたちに「人殺しだ!」と言いながら、レントン自身もエウレカと自分の未来ために人を殺しまくったという過去=記憶とどう折り合いをつけたのかもよくわからないですし。不遇な運命にあったホランドたちは人を殺して生き延びることの罪を自覚したうえで何が何でも生き延びるという貪欲さが描かれていたと思いますが、レントンはそこを誤魔化したままラストまでいった気がします(レントンは「どうしてこうなっちゃったんだろう?」と言って責任を他に押し付けていたし、「エウレカのためにならバカになれる」的発言を根拠として愛のために正当化されたと考えると、あまりに陳腐で独善的です)。尺の関係上無理だったのかもしれませんが、そこが流されたせいで愛を肯定する・わがままを肯定する説得力が弱くなっているのが残念だと思います。


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チビエウレカとチビレントン、二人のラブラブっぷり、KLFの空中戦、テレビ版や他の映画をオマージュしたギャグ(バックトゥザフューチャーの“ジゴワット”という単位が出ていた)などは観ててとても楽しかったんですが、アップテンポで爽快感のあるテクノを理屈優先で封印してしまった*2、長い理屈の説明や解説くさい台詞回しが多かった、レントンエウレカが直接的にイチャイチャしてて思春期の情趣が薄れた、レントンよりホランドのほうが感情移入できた、ニルヴァーシュがなぜマスコット化w、スパイロボットw、ドーハの悲劇w、いい奴だったハップとストナーが・・・などなど、気になる点も沢山あったので評価が難しいです。


でも観てよかったと思いました。

TVシリーズで最後に美味しいとこを持っていったユルゲンスが劇場版でもさりげなく美味しい役になっていること、グレッグ・ベア・イーガンの扱いw、デューイの性癖がトンでもないことになっていることなど(あれは名言ですね)w、TVシリーズを観ていた人はいたるところで吹き出したことでしょう。
TVシリーズのパワーで観れたってことかな。
やっぱりなんだかんだで自分はTVシリーズの方が好きなのでした!佐藤大マンセー

*1:エウレカセブンのTVシリーズは「打倒エヴァンゲリオン」を謳って作られたもので、シナリオ・宗教的なモチーフ・主人公のコンプレックスなど、様々な影響を受けていた。しかし、人物造詣が浅い、ストーリーの骨格が弱いという評価が多く、超えられなかった。

*2:トークショー時の監督の話によると、TVシリーズではサブカルに憧れる田舎の少年レントンと視聴者自身を重ね合わせてもらう狙いがあったが、劇場版ではもはやエウレカセブン自体がサブカル化したのでテクノを使う必要性がなくなったとのことだった。